命のパン


2016年12月号

[わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせあなたを導いて道を行かせる。.] イザヤ書48章17節 2016年度教会標語

私たちが信じている聖書の神は生きておられる神です。人間の手で作ったものではなく紙に書かれたものでもありません。目で見ることは出来ませんが霊なる存在において生きておいでになる神であるということです。この生ける神の前に生きる、いつも神様を計算に入れた生き方をしていくのがクリスチャンの歩みでしょう。

聖書には、貧しい女性がレプトン銅貨二枚を捧げたお話しがありますが、見えない神様を目の前において生きた人です。お金持ちと貧しい女性とが神殿に献金をしに行きました。お金持ちはあり余るお金の中から献金をしました。いくらかは分かりませんが、それは大きな金額だったかもしれません。そして、その陰にいた貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を献金しました。レプトンというのは当時のお金の単位で一番安いものです。この貧しい女性はそれだけしか持っていなかったのです。それを捧げたということは、全部捧げたということです。

それを見たイエス様はこうおっしゃいました。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ビリオネアがNPOに何百ミリオン寄付をしたということがニュースになりますが、彼らの財産から言えばどうってことはないのでしょう。しかしその日暮らしの人が全財産を捧げるというのは、その人の存在を捧げることです。神様はそういう献金をお喜びになるでしょう。

たしかに献金は額の問題ではないでしょうが、痛みを負うことは大切だろうと思います。自分の力に余る献金をしたら、もう食べていけなくなるかといえば、そんな事はないのです。聖書は「神にささげることによって、神がさらに祝福して下さることを、あなた方も経験しなさい」と言っているのです。

ですから私たちもまた生ける神に最高のものを持ってお仕えすることが大切であろうと思います。イエス様は「生ける神は復活の神である。」とおっしゃいました。私たちは、その神の前に生きることが出来るよう、この地上での歩みを始めていきたいと思います。


2017年4月号

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」使徒言行録1章8節 2017年度教会標語

“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 使徒言行録8章29節

ピリポはその言葉に従ったわけですが、この「あの馬車と一緒に行け」というのは「寄り添いなさい。」「馬車に乗っている人の友となりなさい。」ということです。

私たちは誰々に伝道しなさいと言われたら、「まだ聖書をよく知らないし、何も知らないし、ちょっと・・・」と思ってしまうかもしれませんが、けれども伝道するために一番大切な事はまず友達になることです。

30節に「フィリポが走り寄ると・・・」と書いてあります。このときピリポは「近寄って友達になりなさい。」と言われたときに、躍り上がって、喜んで跳ねるようにしていっただろうと思いませんか。

私たちにも神様は「誰かに電話を掛けた方が良い。手紙を書いたほうが良い。」と、しばしば、語りかけてくださいます。そういう時は、喜んで躍り上がるようにして電話をかけることが大切です。そこから伝道が始まっていきます。ですから友達になる、それは偉大な伝道です。

聖霊が導いて下さるということは、そういうことなのです。何か一生懸命に聖書を学んだとか、神学校に入って学んだ、ということではなくて、聖霊が私たちの心に語ってくださることによって、即座に従うときに、聖霊はあなたを通して驚くべきみ業をなさせて下さいます。聖霊の導きに従うときに、私たちは神に仕える事が出来るのです。その時どんなに豊かな祝福を受けることかと思います。

ピリポは、まさにそういう聖霊による導きを受けた人であったと思います。エチオピアの高官のところにも、聖霊が導いて下さったのです。そして近寄っていって話しをしているうちに、聖霊は相手の高官のうちにも働いて下さいました。その人が読んでいたのはイザヤ書53章だったのですが、ピリポは「これはイエス・キリストのことですよ。」と、「キリストの十字架は私の罪のためだったと信じる人を救う道を、神は開いてくださった。」と伝えました。

イエス様を信じて救われている人を通じてでなければ、神の救いの恵みは伝わらないということです。どこまでも自分が中心でいるときに、神様はその人を通じてみわざはなさらないのです。ピリポはイエスの御霊によって扱われて、迫害を受けたにもかかわらずサマリヤに飛んでいきました。また、サマリヤで用いられたにもかかわらず「荒れ野に行け」と言われたら「はい」と従いました。そのように砕かれた、神様の用いやすい器になっていたからピリポは福音を語ることが出来たのです。私たちもいま一度砕かれた思いをもって自分をお捧げしようではありませんか。神様は必ずあなたを用いて下さいます。



2017年6/7/8月号

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」使徒言行録1章8節 2017年度教会標語

使徒言行録13章にはバルナバとパウロがピシディア州のアンティオキアというところでした説教が書かれています。パウロの説教を聞いた結果、多くの人がイエス様を信じたと言われています。このパウロの説教は自分が話したいことを話したのではなかったようです。初代教会においては、説教の中にあるメッセージが共通していたようです。ペテロの説教を見ますと、まず旧約聖書の約束が成就したことが言われています。次にイエス・キリストの十字架と復活こそが私たちを救うことを説きました。そして、だから私たちは悔い改めて福音を信ずるべきである言いました。この3つのポイントが最初の教会の説教のアウトラインであったということです。

ここに書かれているパウロの説教もまさにそのようです。17節から26節までのところには「神が旧約の人々に約束して下さっていたことが今や実現したのだ」と言われています27~37節には「イエス・キリストの十字架は人類の罪のためであり、復活は私たちの救いのためであった」と説かれています。そして38~41節までのところには、悔い改めと信仰が勧められているわけです。

説教者はそのように、教会に伝承されてきたことをみ言葉に基づいて話すわけですが、説教者には説教者の独自性もあります。その中にパウロがどういう人生観を持っていたか、神はどういうお方であると考えていたかが自然と表されています。 35~37節でパウロはダビデ王の書いた詩篇を引用して「ダビデはイエス・キリストの復活を千年前に預言していたのだ」と言っています。この前の節あたりから、かなり長くダビデのことが言われているわけですが、ダビデとはイスラエルの王になった人であり、武人であると共に芸術家でもありました。

歌を歌うことも、竪琴を弾くことも上手で、詩篇にはダビデの作と言われているものが多く収められています。実に多才な人でした。そのダビデがやがて世界にメシヤが来て、人類の罪のために十字架に付いて、神がこの救い主を復活させて下さることを予告していたのです。イエス様の十字架と復活というのは、歴史的な事実であると同時に、もう何千年も前から預言者たちによって言われていたということです。

旧約聖書のサムエル記の上・下や、列王記の上・下を見ればダビデがどういう生涯を送ったかは誰でも分かります。パウロはそのダビデの生涯を通して、人生というのはいったいどういうものなのか、神様が私たち一人ひとりにどういう人生を送ることを願っておられるのか、ということを言っているのです。



2018年8月/9月号

「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」 ガラテヤ6章14節 2018年度教会標語

“その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて・・・くださるように。”

エペソ3章でパウロはクリスチャン一人一人のために祈りました。どういう祈りをしたのかと言いますと、パウロ自身もそうだったと思いますが「内なる人」を強めて下さるようにということです。聖書には「外なる人」とか「内なる人」という表現があります。これは生きている存在としての人間ということでしょうすが、ここでは「私たちの心の内にキリストが住んで下さり、愛の生涯を送る事が出来るように」ということを言っているのでしょう。

聖書はキリストを信じる者の心の中にキリストが住まわれると言いますが、その心がキリストが住まわれるようになっているかどうかです。災害で家が壊されてしまったところに人が住むことが出来ないように、私たちの心も整えられている必要があるということです。ですから私たちの「内なる人」が強くされるということが大切なのです。だからこそ、パウロはそのように祈ったのでしょう。

パウロが一番願ったことの一つ、それは私たちクリスチャンの信仰生活において一番大切なことである「内なる人が強められる」ということでした。

私たちの内なる人とは、人格ということかもしれません。物事の判断や日常の生活が健全である事が出来るように、あるいは心の中がいつも安定しているように、意思についても正しい決断をする事が出来るようにというために「内なる人を強めて下さい。」とパウロは祈りました。

そしてその後に「内なる人」が強められることによって、信仰によりキリストが「心の内に住まわれる」のだと言うのです。それは私たちの中心に主がおいでになって人生を導いて下さるという、内住のキリストによる生涯ということでしょう。具体的には「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として」生きるということです。このお方を心の内にお迎えするということは、このお方の「愛に生きる」ということです。